毒のように甘く

毒のように甘く




目が覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなかった。
そういうことは、御剣怜侍には割とよくあることだった。
彼は寝つきがおそろしくいいだけに、
寝る前の記憶がすっぽりと抜けてしまうことが時々
――いや、かなりの頻度で――あるのだった。

体を伸ばすと、ここがとても心地よいことがわかる。
新しく清潔なシーツ。
掛け布団は軽くてやわらかく、こもった湿気を感じない。
忙しくて一ヶ月も日に干していない自分の掛け布団と、
交換するのも面倒でそのままになっている
カバーのかかった自宅のベッドではないな、と思う。

うつぶせになっていた体を動かして天井を仰ぐ。
見た覚えのない壁紙と明かり。
カーテンも間取りも、全然見覚えがない。

自分はなぜここにいるのだろうか…着ている夜着にも記憶がない。
これを着た覚えもない。

誘拐でもされたのか…と思いながら、
そんな気分でもないと、軽く記憶喪失な気分になる。

とりあえず起きてからだと思い、寝台から降りた。
スリッパが揃えて脇に置いてあるが、
履いた気配がないということは、誰かが揃えたということだ。
足を入れ、カーテンを引く。
曇りガラスを開けると、目の前には見たことがない、なだらかな丘と、森が広がっていた。
ところどころに、小屋のようなコテージが、一定の間隔を持って林立している。
時間はまだ午前中のようだが、太陽はすでに高い。
人がまったくいないわけではないようだが、
目に入る限りの場所に人影はなかった。

澄んだ空気の匂いは、普段日常を過ごしている街とは違う。
さわやかな高原の空気。
胸いっぱいにそれを吸い込むと、体中の細胞が生き返る。

そうやっていると御剣は少しづつ、
自分が今なぜここにいるのか、ということを思い出してきた。

もう一度空気を吸って大きくのびをし、
窓を閉めてレースのカーテンだけを引く。
光に満ちた部屋は明るい色で満たされていて、
御剣は少しだけ表情をゆるめた。

なんだか表情筋が強張っているようだ。
笑ったことなど、どのくらい前だろうか?
 
部屋を出ると、短い廊下の先に玄関があり、
反対側の突き当たりにガラスのドアがあった。
そこを押し開くと、その先は広いリビング。
ソファセット、ガラステーブルがゆったりと配置され、
大型のテレビとテレビ台が奥の壁際に置かれていた。
部屋はそのままダイニングへ続いており、
天井が高く落ち着いた色合いの壁紙の部屋は、
静かで暖かく、御剣はほっとした。かすかに空調の音。

「おはよう。ようやく起きたね、御剣」

ソファに座ってだらりと本を読んでいた背中が振り向く。

リビングからは一面の芝生が見え、
腰の位置まで刈り込んだ垣根が道からの視界をさまたげていた。
外は見えるが外からは見えないしつらいが上品で、
生垣の緑が目に染みるようだった

「ああ。…おはよう、成歩堂」
自分をここまで連れてきた男が、嬉しそうに笑った。





「ところで夕べのことだが」

顔を洗って歯を磨いて、備え付けの夜着を脱いで私服に着替えた。
その間にパーティが出来そうなほど大きなテーブルの上に紅茶を用意して、
成歩堂龍一が御剣を待っていた。
成歩堂の前には自分で飲んだ空のカップがあり、
読んでいた本はどこかにしまったようだった。

「ん? 夕べのこと?」

当たり前のように成歩堂の向かいに座り、御剣は紅茶を口に含む。
こんな場所で茶葉から入れたものであるとは思わなかったが、
予想以上によい香りと熱さに、
ぼんやりした頭がじんわりと覚めてゆくのを感じていた。

「私はこの部屋に着いた記憶がないのだが、…君がすべてやってくれたのだろうか?」

「ああ、うん、そうだねぇ。御剣覚えてないんだ? よく寝てたもんなぁ」

「なんとなく返事をしたような気がしたのだが…その、すまなかった」

「そういうときはありがとうって言うって真宵ちゃんに習ったでしょ? 忘れたの」

「う、うム…、そうだったな。……ありがとう」

「よく出来ました」

「それにしても、…着替えまで…すまなかった」

「どういたしまして。役得だったからいいよ」

そういって成歩堂はにやりと笑った。
今度はさっきのとは意味合いがまったく違う。
御剣は顔が赤くなるのを感じて目を伏せた。
夕べ―――というよりすでに深夜だったはずだ。
二泊三日の休日を捻出するためにやりくりした仕事の最後の書類が終わり、
後は事務官に任せておけるところまで仕上げた書類を印刷し終わって、
御剣はクローゼットに鍵をかけた。
ズキズキする頭を抱えながら、検察庁を出たところまでは――覚えている。

珍しく車で成歩堂が待っていて――確かレンタカーだという話はした。
準備をする間もなかった御剣の、着替えも洗面道具も、
読みかけの本も詰め込んだバックを積んで、
成歩堂は最後の荷物である御剣を助手席に招き入れた。
シートベルトは締めた、
確か何か飲み物をもらった――何か話をした覚えがある。

「何か薬物でも入れたのか? 昨日の飲み物に」

「そんな人聞きの悪いこというなよ。ココア飲み干したら即効寝たのはおまえだろう」

「そうだったか…」

「お疲れさま。ずいぶん無理してたみたいだったから、それはまぁしょうがないよね」

「運転を…すべて任せてしまって申し訳ない」

「それも想定内だからいいよ、別に」

「…帰りは私が運転しよう」

「ん? 今回は御剣のためにここまできたんだから、気を使わなくていいよ。サービスするからさ」

 そういって成歩堂はにこやかに笑う。

「……その、……なにからなにまで、……すまない」

どうにもうまく感謝の気持ちが述べられない。
顔が赤い。
御剣が目を伏せていると、
成歩堂の手が伸びてきて、御剣の頬を撫でた。

「まだ目の下に隈が残ってるな。朝からだけど、風呂入ってこいよ。湯はためておくから」

「いや、シャワーでいい…」

「いいじゃない、ちゃんと入りなよ。
 僕も夕べざっと浴びただけだから、入りたいしさ。
 お湯入れても無駄にはならないから」

成歩堂は先回りして答えているようだった。
よどみない答えに力が抜けてくるのがわかる。

「…うむ…そういうことならば…」

「ちゃんと入浴剤も持ってきたから」

「……用意がいいな……」

「どうしたしまして。選んだのは僕じゃないけどね」

そういって成歩堂は立ち上がって伸びをした。
背骨がぼきぼき音を立てる―――
そんな姿勢の悪い姿で長い時間いたのだろうか?

「真宵くんか?」

「うん、そう。ちょっとは期待してて?」

そういって、成歩堂は浴室に向かった。
風呂は部屋の奥にあるようで、しばらくすると水の音が聞こえてくる。
さめないうちにと紅茶を飲んで、
御剣はようやく一週間近く取れなかった頭痛が、
今は綺麗さっぱり消えていることに気がついた。
 
女性のアパートに忍び込んで下着を盗み、
帰ってきた女性に見つかって、殴ったら重傷を負わせた男がいた。
子供を愛人と一緒に虐待し、衰弱寸前まで追い込んだ母親がいた。
振られたことを逆恨みし、
ストーカーとなって嫌がらせをしていた男が相手の女性を殺してしまった。
刑事事件を担当する御剣の元には、
連日そんな事件の起訴を求めて書状が次から次へと舞い込む。

小学生を誘拐して殺し、遺棄した事件の公判がようやく終わり、
なんとか成歩堂と約束した二泊三日の旅行に間に合った。
ここしばらく民事を担当していた成歩堂は、
事件が重ならないから僕の家に来るといいよと言い、
何もしないから暖かい風呂とマッサージを提供すると言った。
すべて世話になるには及ばないと当初は断ったが、
そうでもしないと顔も見ることもできないと泣きつかれて、
成歩堂の部屋ではなく、自分の部屋に泊まるならとの条件で、御剣は承諾した。

海外から戻ってから買ったダブルベッドの向こう側で、
成歩堂がどんな顔をして寝ているのかは知らなかった。
背中を向けて寝ている成歩堂の、
顔を覗き込めばいい…ただそれだけでのことが、
どうしても御剣には出来なかった。

成歩堂は本当に、二日に一回くらいしか自宅に戻ってこられない御剣のために、
御剣の部屋で暖かい風呂と寝る前のマッサージを準備してくれたのだった。
それにどれだけ自分が助けられたのかわからない。
何もする気力もなくても、隣に成歩堂が寝ている
――ただそれだけで、御剣には満足だった。
そうでなければ、もっと自分の顔色は悪かっただろうし、
もっと自分の胃腸は荒れていただろう。
激務であっても身綺麗にすることは忘れなかったが、成歩堂は案外よく気がついて、
スーツをクリーニングし、シャツにアイロンをかけ、
少なくても栄養のある朝食を準備してくれた。
成歩堂はすでに御剣よりも御剣の部屋の中のあれこれをよく知っていて、
必要なものをいろいろ買い揃えてくれていた。

「いい主婦になれるなキミは」

「じゃあ失業したら、御剣の専業主夫になろうかな?」などという。
そんな二言三言の会話を交わすことだけで、
こんなに健やかでいられると、今まで本当に知らなかった。
最初、成歩堂が旅行に行こうと言い出した時にはあまり乗り気はしなかった。
それほど気力がなかったせいもある。
だが、『御剣は体だけ持ってきてくれればいいから』と
成歩堂がしつこく食い下がるので、しぶしぶ承諾したのだった。
だが、確かにあの時、止めなくてよかったと、今は思う。

違う場所、違う空気。
それだけで、気分は至極晴れ晴れとしている。
そしてこのさき、…そう、明日まで、成歩堂と一緒にいられるのだ…と思うと、
それだけで胸が躍るような心地がした。
今頃になって、そんな気持ちがこみ上げてくる。

……そうだ、この広い部屋に二人きり。二泊三日だというから、明日まで。

その事実に、御剣はようやく、それが何を意味するのかに気がついた。











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