ムスメのいない間に・本文サンプル
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「おかえり」

時計はすでに十二時を回っている。

最終の飛行機になんとか乗れたのは幸いだった。
始発の新幹線か飛行機のどちらかにしようか直前までは迷っていた。
だが、結局は自分の欲に負けてしまったあたり、まだまだ自分は甘いものだ――と、御剣怜侍は思った。

高度を上げて飛行機が雲を越える。
今夜はよく晴れているようで、夜景がよく見えた。
だが、視界はほとんど夜の闇だった。

羽田についてからマンションまでの電車は途中でなくなってしまった。
タクシーが捕まえられる最後の駅で降りて車に乗る。
深夜割増のメーターをぼんやりと眺めながら、
固くなっている眉間を、人差し指で揉みほぐした。

久しぶりに戻った自分のマンションは、どんどん自分以外の人間の
――いや、家族の匂いで満ちている。
ドアを開けると玄関に成歩堂が立って待っていたのには、少し驚いたのだが。

「……こんな時間まで、起きていたのか?」
「いつまでも起きてるとみぬきが寝ないからね。一度寝たよ。
 さっき起きたところ。メール見たからそろそろかなって思って、……待ってた」
「…そうか」
「おかえり」

そう言って成歩堂はにっこりと笑った。
相変わらずその笑顔は変わりがなく、御剣はほっと肩の力を抜いた。
そっと手が伸びてきて、肩を抱き寄せられる。

懐かしい匂いが漂ってきて、それだけで泣きそうになる。
そんなに久しぶりだっただろうか、こうして彼と抱き合うのは。

「……ただいま」
「よく出来ました」

まるで子供にいうような言い回しなのは、今も少し、気になる。

「……ム。私だって、それくらい、出来るのだぞ」
「はいはい。おなかすいてる? なんか食べる?」
「弁当を食べてきたから食事はいい」
「そう」
「これが土産だが、冷蔵庫に入れておいてくれ」
「りょーかい」
「風呂はまだあるか?」
「火をつけなおして沸かしてる」
「そうか」

なれた手つきで成歩堂は御剣の手から土産の袋をとり、
中を確認して、表示を見て冷蔵庫にしまった。
土産の入っていた袋を畳んでワゴンの隙間に差し入れ、
御剣の後からついていって、脱いだ上着をハンガーにかけてブラシをかける。
御剣がタイをほどいたのを受け取ってこれもハンガーにかけて皺を伸ばし、
カフスを外しているとベルトに手を伸ばしてきた。

「ム?」
「お風呂はいろ」
「自分で出来る」
「ボクがしたいの」
「子供ではないぞ」
「知ってるよ」

成歩堂のほうが圧倒的に手先が器用なうえ、
子供の着替えで慣れているのか、御剣のベルトを外し、フックにかけ、
ファスナーをおろす手際のよさはずば抜けていた。
膝までおろしてシャツの裾を出し、ボタンを外して肩から下ろす。

「ん――…いいにおい」
「飛行機の中が少し暑くて、汗をかいていたから…臭いぞ」
「御剣の匂いはなんでもいい匂いだよ」
「……相変わらず、キサマはおかしいぞ」
「今に始まったことじゃないでしょ」

成歩堂が御剣に特別な執着を見せるのは今に始まったことではない。
そういう行為に少しばかり、優越感をくすぐられることも御剣は知っていた。

「洗濯しちゃうの、もったいないなぁ」
「ちゃんとアイロンをかけておいてくれたまえ」
「もちろん」
シャツを引き抜いて、膝まで下ろしていたボトムを
足から抜いて整えてハンガーにかけ、軽くブラッシング。
その間に御剣は靴下を脱ぎ、下着一枚になっていた。

「先にお風呂行ってて」
「ああ」

ぺたぺたと足音。
シャツとジャケットのボケットの中身を確認して、ハンカチを取り出す。
いましがた脱いだ洗濯物を確認して、バッグを定位置に置き、
成歩堂はすぐに浴室へ向かった。
洗濯機にぽいぽいと服を放り込み、
念のため、みぬきの部屋を覗き込めば、
すでにムスメは夢の中のようだった。
足元には、ぱんぱんに膨らんだリュックが転がっている。

明日から二泊三日で、小学校の修学旅行で伊豆と箱根へ向かうのだ。
それが今回の帰宅の理由でもある――
子供のいない、久しぶりの逢瀬だ。


ガラスをあけると、体を洗っている御剣の背中が見えた。
後ろ手に閉めながら、肌の上のどこにも怪我や傷がないことを確認する。
少し痩せたような気がするが、それはこの後でじっくりと確認すればいい。

「背中、洗おうか」
「ん…、ああ。たのむ」

ボディソープを泡立てて、ゆっくりと体を洗う。
背骨にそって少し力をこめて擦ると、御剣の口から安堵の声が漏れた。

「肩、こってるね」
「…そうだろうか……」
「疲れてる?」
「……そうだな、……疲れては、いる……」 

反応が遅い。

あまり力を入れると肌が荒れるので、背中以外はそっと洗う。
御剣はそれを止めろとは言わず、されるがままになっていた。

髪を洗うとき、少し顔を後ろにそらしているので、
成歩堂からすらっとした鼻筋や顎が目に入る。
久しぶりに見るその姿に、どこか懐かしさすら感じながら、成歩堂は目を細めた。
耳の下を撫でると、気持ちよさそうにうっとりと目を閉じる。
そんな仕草も懐かしく、いとおしい。

二人して一緒に湯船に入った。
湯は溢れる寸前でとどまり、膝のあたりをゆるく撫で回した。
流石に二人で肩まで入るわけにはいかない。

「ふ――……」
深く長い御剣の吐息。
力を抜いて背を成歩堂に預けると、
成歩堂がそれを抱きとめた。
膝が湯から出てしまうが、
それに成歩堂は湯をかけながらくるくると撫でる。

「疲れた?」
「……いや、……楽になった」
「そう?」

体の力を抜いて、全身を成歩堂に寄せる
――それがとても嬉しくて、髪をすく指先が少し震えた。

「……御剣」
「ん」
「おかえりなさい」
「……ああ……」

耳に流し込まれる成歩堂の声に、
うっとりとしながら目を閉じる姿は、
妙に神々しく、久しぶりに見るせいだろうか、
やけに新鮮で清冽だった。

「なんだかまた綺麗になったみたいだね」
「……そんな腑向けたことを言うのはおまえくらいだ」
「そうかな? 結構部下の人たちも、
 そう思ってるんじゃないのかな……言えないんだろうけど」
「男にそんなこと言うやつがあるか」
「そんなことないよ。
 綺麗なものは、綺麗だし――
 御剣はいつも綺麗でかっこよくて、……素敵だよ」
「……三十男にそんなことを言う莫迦がいるか」

少し御剣の耳が赤い。

体が温まるまで入った後で湯から出て、
夜着に着替えてリビングに向かった。

髪を干しながら他愛もない話をする。

みぬきの学校の話、毎日の生活の話、御剣の赴任先の話。

生活の習慣も気候も違う生活に、
御剣は適応力の高さを発揮して、
快適に暮らしているようだった。

洗濯と掃除は完璧だが、食事はなかなか自炊することは難しいようで、
しかし外食の味には不満はないようだ。
時には人に食事を振舞ってもらうこともあるのだ――と話すと、
成歩堂は「妬けるな」と、冗談とも、本気ともとれぬ返事をした。

「狙われているんじゃないの」
「……なにをだ?」
「女子職員とかにさ。
 ……東京から来たエリートを捕まえて結婚しようとか思われてるんじゃない?」
「その点については、最初のうちにそれとなくクギをさしておいた」
「へぇ」
「生涯をともに過ごそうと誓ったパートナーがいるので、
 期待に沿うことは出来ないと」
「……へぇ……」
「虫よけに指輪もしている。
 これは上司に言われたのだ、
 職員が浮つくので、その気がないなら自衛しろと」
「ふーん。相変わらずモテてるんだねぇ」

本気なのかどうなのかわからない返事をかえしながら、
成歩堂は御剣の髪を乾かし始めた。

他の人に髪を乾かされるのは心地よいことではある。
成歩堂の指先に触れられるのは、
やはり特別な心地よさがある…と思いながら、
御剣はうっとりと目を閉じた。











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